北室かず子さん著の『北の鞄ものがたり〜いたがきの職人魂』から、職人たちの時代やいたがきの製作秘話を抜粋して、毎日少しずつお届けします。
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■丁稚奉公の日々3

仕事中に居眠りをすると、師匠の物差しでポンをやられた。育ち盛りの15歳。いくら寝ても寝足りない、いくら食べても腹が減る。職人の給料が月1万円のところ、丁稚奉公の3年間、給料は月500円だった。

両親と兄たちに会いたくて、夜、布団の中で泣いた。貧しくても家族の温もりに包まれていた日々がたまらなく懐かしかった。しかし涙は長くは続かない。身を粉にして働く丁稚は、コトリと眠りに落ちていた。

師匠が作った鞄の多くは、銀座の谷澤鞄店に納品されていた。「墨田川沿いには材料の革を作るなめし工場、鞄工場、金具などの部品屋さんが集まっていて、できた製品は川を下って銀座の専門店や百貨店に納められたのです」。

台東区立産業研修センター内にある皮革産業資料館の資料によると、江戸時代中期から皮革産業が集まり、明治時代に西洋文化が入って装いが洋風化したことで、皮革産業も近代化され、新しい産業として振興した。

資料館に「銀座タニザワ鞄店寄贈」と書かれたワニ革のボストンバッグが展示されていた。立ち上がる品格と高級感。紳士の持ち物として鞄がいかに重要な意味をもっていたかがひしひしと伝わってきた。

「師匠の手は、それ自体が鞄を作るための道具のようでした。革から信じられないほど美しいものを生み出す。女にはだらしなかったけどね」

―続く―