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- 2020
- 04/14
- 12:00PM
『北の鞄ものがたり』より②
北室かず子さん著の『北の鞄ものがたり〜いたがきの職人魂』から、職人たちの時代やいたがきの製作秘話を抜粋して、毎日少しずつお届けします。
※鞄いたがき公式HP「北の鞄ものがたり」特設ページ
https://www.itagaki.co.jp/syoseki/
■丁稚奉公の日々2
最年少だから雑用も多い。鞄に使うファスナーを買いに吉田工業まで自転車を走らせる。
昭和9年に創業した吉田工業(現YKKグループ)はファスナーの加工販売を行っていたが、昭和20年の東京大空襲で工場を全焼。一度解散し、昭和26年に本社を日本橋馬喰町において再出発したばかりだった。当時のファスナーは、職人が股の間に布をはさみ、金属の歯を1個1個布に打ち込んで作っていた。
「自転車をこいでお使いに行くとね、創業者の吉田忠雄さんが『おー、よく来たな』と言ってお駄賃にキャラメルをくれたんです。1箱ではなく、1粒ね。そのおいしかったこと。脳天がとろけるようだったね」
当時墨田川界隈では、焼け野原からものづくり産業の芽が出始めていたのだ。
いや、東京に限らず、日本中が焼け野原から立ち上がりつつある時代だった。
お使いは救いだった。自転車をこぎながら寝られたのである。「昭和20年代、自動車なんてまだほとんど走ってなかった。ぶつかるとしてもせいぜいスクーターくらい。でも電柱にはよくぶつかったなあ。生傷が絶えなかった」と笑う。
自分の衣類を洗濯していると、先輩が「これも洗っておけ」と、その上に積み上げていく。とにかく朝から夜中まで働いた。1日4食、食べられることが唯一の救いだった。
3か月が過ぎた頃、初めて師匠が声をかけてくれた。そして机の上に包丁を2本、置いていった。「僕にくれるのかな。親方、革を切ってみろってことかな」こんなところに英三の天真爛漫な末っ子らしさがにじみ出る。
「バカか、研いどけってことだよ。俺でも親方に包丁なんかもらったことないぞ」と兄弟子に怒鳴られた。革の裁断は1ミリでもずれると高価な材料をムダにしてしまう。わずか3か月でそんな重要な仕事をさせてもらえるはずがなかった。
兄弟子が研ぐ様子をまねてやってみたが、何度やってもダメ出しされる。やっとわかったのは、頬に当てるとさっと産毛が切れる切れ味に仕上げるのが、プロの道具だということだった。
―続く―
投稿者:京都御池店